「人間の悩みは、全て対人関係の悩みだ」ってアドラーさんが言ったように、人間関係というのは非常に悩ましい難しいもの。
俺も対人関係の悩みがなくなれば、9割の悩みが消し飛んでしまうんじゃないかと思う。
で、そのアドラーさんのアドラー心理学について書かれた「嫌われる勇気」を初めて読んだ時は心がかなり軽くなった記憶がある。
別に嫌われてもいいんだってそこから思えるようになったけど、最近それにプラスしてもう一つ思うようになったことがある。
それは、別に好かれなくてもいいということ。
嫌われてもいいことと好かれなくてもいいことって同じことのように思うかもしれないが、ちょっと違うと思ってる。
好かれなくてもいいという方には、ちょっとした寂しさみたいなものが宿ってると思う。
好かれたいと思ってたけど、それは無理だよね…的な。
自分の経験を元に言うと、嫌われてもいいってのは開き直りで、好かれなくてもいいってのはある種の悟りかなと思う。
嫌われてもいいってのは極端な話のことで、最初からガツンと線を引く感じ。
で、好かれなくてもいいってのは、人生いろいろ経験していって、最終的にある時「あぁ、好かれなくてもいいや」って悟るってことなんじゃないかと思う。
ことなんじゃないかと思うというか、自分の経験の話だけど。
実際「嫌われる勇気」を読んで以降これまで嫌われてもいいとは思ってたけど、同時に心では好かれたいとも思っていた。
一見すると正反対のような気持ちが共存してた。
無意識的に、好かれることがあるのなら好かれたいと思ってた。
自分の人間性や特技や趣味など、自分の中のどこかに共感して好意を持ってもらえるのなら好意を持ってもらいたいし、好意的に接してくれる人には好意的に返したいと思っていた。
まぁ、人間にとってはごくごく当たり前の気持ちだけどね。
けど最近色々あって、自分の心の中に「周りに好かれたい」という気持ちがあったことを見つけて向き合い、それと同時に、あぁ、周りに好かれようなんて無理だなと思った。
自分から好かれようと思って積極的に色々やる必要もないなと。
好かれたいなんて人間にとって当たり前の普通の感情だろうし、そんなの意識せずとも周りに好いてもらえるように振る舞ってたと思う。
振る舞おうとしていたと思う。
けど、諦めた。
まぁ、別に好いてもらう必要もないかなって思う。
嫌われてもいいし、好いてもらう必要もない。
まぁ、Twitter結構やってた頃は別に嫌われてもいいわと思ってたからホンネをガンガン言って他のアカウントとバトルしたこともちょこちょこあったけど、プラス他人の顔色を伺ったりして好かれようなんてこともこれからは考えない。
やっぱり結局は自分ファースト。
これに尽きる。
自分ファーストでいかなきゃダメだ。
まぁ、こういう考えだと多分他人には冷たい印象を与えることになるんだろうが、結局それも好かれようと思ってないから別にどうでもいい。
それに自分ファーストが必ずしも悪いわけでもなく、アダムスミスのピン工場の話のように、個人個人が自己中を通していくと結果的に全体が良くなるってことも往々にしてあるワケだから、そこはどういう生き方をしたいかの選択の問題だ。
もし自分が好かれたいなと思う余地があるとすれば、今のところそれは自分の作品に対してかな。
俺自身については別にどうでもいいけど、俺の生み出した作品が好かれてくれればそれは嬉しい。
というワケで、ますますこれから一人の芸術家として頑張るぞと少しモチベーションも上がりつつある。
これからまた作品を作っていくぞ!
ってこんなセリフそこそこ前から言ってるけど一向に作品作ってねえじゃねえかおめえさんわ!!
はよ作れ!!
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